MPi-KM | |
MPi-K | |
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種類 | 軍用小銃 |
製造国 | 東ドイツ |
設計・製造 |
設計 ミハイル・カラシニコフ 製造 エルンスト・テールマン工場 |
仕様 | |
種別 | アサルトライフル |
口径 | 7.62 mm |
銃身長 | 415 mm |
ライフリング | 6条右回り |
使用弾薬 | 7.62×39mm弾 |
装弾数 | 30発 |
作動方式 |
長ガス・ピストン式 回転ボルト閉鎖 セミ/フルオート切替射撃 |
全長 | 870 mm(MPi-K) |
重量 | 3.7 kg |
発射速度 | 600発/分 |
銃口初速 | 720 m/s |
有効射程 | 800 m |
歴史 | |
製造期間 | 1950年代 - 1980年代 |
配備期間 | 1950年代 - 1990年 |
MPi-Kとは、ドイツ民主共和国(東ドイツ)でライセンス生産されたAKである。その名称は Maschinenpistole Kalaschnikow の略で、「カラシニコフ型短機関銃」を意味する。ドイツ民主共和国では、ナチス・ドイツ時代に造られた突撃銃(Sturmgewehr)の語は使用されなかった。
第二次世界大戦後、東ドイツにおける再軍備は兵営人民警察と称される準軍事組織から始まった。当初、兵営人民警察では在独ソ連軍から供与されたモシン・ナガン小銃やPPSh-41短機関銃、あるいは旧軍から接収されたKar98k小銃やStG44突撃銃などが配備されていた。1956年、兵営人民警察は国軍たる国家人民軍に改組される。1957年、国家人民軍はソビエト連邦製のAK突撃銃を制式小銃として採用し、この2年後にはライセンス生産が開始された[1]。生産は主にズール県のエルンスト・テールマン工場にて行われた。
東ドイツ製AKの独自の特徴としては次のようなものが挙げられる。
また、本家のAKと同様に多くの派生型が存在する。
AKMSに相当するMPi-KMS-72では、折畳時にもセレクターの操作を邪魔しないように形状を工夫した、独自の側面折り畳み式銃床が採用された。この銃床は後にルーマニアやポーランドなどが国産化したカラシニコフ銃(AIMやタンタルなど)に模倣された。特に区別する場合、従来の下方折り畳み式銃床を「ロシアン・パターン」、東ドイツ製の側面折り畳み式銃床を「イースト・ジャーマン・パターン」などと呼ぶこともある[4]。
MPi-AK-74は、ソ連製のAK74に相当するモデルで、口径を5.45 mm(使用弾薬5.45×39mm)に小口径化している。なお、国境警備隊では5.45mm口径の小銃を採用しなかった。これは5.45 mm弾の殺傷力が国境警備活動において過剰であり、また弾頭が軽量であることから風や障害物の影響を受けて隣国領内に着弾する可能性が高いと判断された為である[5]。
MPi-Kシリーズは、東ドイツの警察組織や軍事組織が採用したほか、輸出も広く行われた。当時、東側諸国では国産化したカラシニコフ銃の輸出が外貨獲得手段の1つとなっており、特に1970年代までの東ドイツは全世界に流通するカラシニコフ銃の生産の3分の1近くを担っていた。こうした状況がソ連製カラシニコフ銃の価格低下を招いていたこともあり、1981年から始まったAK74の国産化に関する交渉においては、国産モデル(MPi-AK-74N)の輸出を禁ずる条項が加えられた。東ドイツ側ではこの条項を回避して武器輸出を継続するべく、西側諸国での需要も見込んだ5.56x45mm NATO弾仕様のヴィーガー・シリーズを開発した[6]。
東ドイツ崩壊後、MPi-Kなどの銃器を始めとする各種装備品及び物資はドイツ連邦軍(西ドイツ軍)が接収し、少数が研究や演習などの用途に用いられた。大多数のMPi-Kは統一ドイツ政府によってアフリカや中東へ売却された後、紛争地域などへ流出していった[要出典]。