Kar98k | |
Karabiner 98 kurz (K98k) | |
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種類 | 軍用小銃 |
製造国 |
ナチス・ドイツ (チェコスロバキアやポーランドなど、一部占領国でも生産) |
設計・製造 | マウザー(モーゼル)社他、総計8社10工場 |
年代 | 1935-1945 |
仕様 | |
口径 | 7.92mm |
銃身長 | 600mm |
ライフリング | 4条、右回り |
使用弾薬 | 7.92x57mmモーゼル弾[1] |
装弾数 | 5発 |
作動方式 | ボルトアクション方式[1] |
全長 | 1,100mm |
重量 |
3.9kg(単材銃床) 4.2kg(積層材銃床)[1] |
銃口初速 | 760m/s |
射程 | 500m |
最大射程 | 1,000m(照準器装備の場合) |
コストユニット | 55ライヒスマルク |
歴史 | |
製造数 | 14,600,000丁[2][3] |
Karabiner 98 Kurz(カラビーナー・アハトウントノインツィヒ・クルツ, K98k, Kar98k)は、ナチス・ドイツで開発されたボルトアクション式小銃である。帝政時代に制式採用された歩兵銃Gewehr 98から派生した騎兵銃型の1つで、1935年6月,制式採用後、1945年まで生産された[4]。そのため、第二次大戦を通じドイツ国防軍の正式小銃として採用[2]、武装親衛隊などでも運用された。
ドイツ以外の国でも広く使用されたほか、第二次大戦後もドイツ(西ドイツ・東ドイツ)を始め、各国で使用され続けた。現在でも儀仗銃として使われている。
Kar98kは通称であり、当時の軍マニュアル等によれば正式名称はKarabiner98kで、略称はK98kである[5]。Karabiner(カラビナー)は騎兵銃を意味し、98は母体のGew98が制式採用された1898年を示す。末尾のkはkurz(クルツ)、「短い」を意味し、全体として「1898年式の短型騎兵銃」たるを示している。アメリカのカービン銃のカービンは、このカラビナーと同意である。騎兵は馬上射撃が求められるので、取回しのしやすさから短めの全長、また、背負った場合の安定性から負革が銃側面に存在すること等が、騎兵銃の形状の特徴となっている。これが転じて、後のドイツでは負革が銃側面に付く小銃をKarabinerと呼ぶことにもなっている。
口径7.92mm、装弾数5発のボルトアクション式ライフルである。制式採用時点で、アメリカやソビエト連邦等では半自動小銃の実用化が進められており、既に旧式化しつつあったが、命中精度や安全装置の設計に優れ、高い信頼性や生産性から1945年終戦まで生産が続けられた。生産は、開発者モーゼル社の二つの工場の他、国内複数の銃器メーカーと占領下の国外銃器工場まで動員して行われ、総生産数は1,100万丁を超える[6]。
精度の高い個体は4~6倍程度の望遠照準鏡との組合せで狙撃銃としても威力を発揮し、戦争末期におけるドイツ狙撃兵は前進する連合国兵士の脅威となった[7]。
Gew98の文字通りの騎兵銃型Kar98(Karabiner98)は、1900年頃から開発が開始された。当初の銃身長は435mmで反動や銃口炎などが不適であった[注釈 1]ため、1907年に完成した最終モデルの銃身長は590mmとなった。これはKar98AZ(Karabiner98 mit Aufpflanz- und Zusammensetzvorrichtung, 着剣・叉銃金具付き98年式騎兵銃)と呼ばれたが、後のヴァイマル時代に後述のKar98bと区別するためKar98a(Karabiner98a)と呼ばれるようになり[8]、今日に至っている。Kar98aの全長は、銃身長600mmであるKar98kとほぼ同じであり、側面の負革や曲げられたボルトハンドル等、似た特徴もある一方、銃口近くから機関部薬室付近まで覆う木被(銃身覆い)や特徴的な叉銃用金具等、異なる点も多く有していた[9][10][11]。
第一次世界大戦の敗戦と共にドイツにはヴェルサイユ条約により軍事的にも厳しい規制が課されることとなった。その下で新生ヴァイマル共和国陸軍(Reichsheer)は当初第一次世界大戦より残されたGew98やKar98を使用したが、銃器の経年劣化によるメンテナンス増に際して規格の統一化を図るため、1920年代初頭にGew98にいくつかの改良を加えてKar98b(Karabiner98b)として採用した。
Kar98bは銃身長がGew98と同じ740mmであったが、負革が側面に付けられたことからKarabinerと呼ばれた。またほとんどのKar98bは既存のGew98を改造したものであった[12][13][14]。
第一次世界大戦後、世界の主力小銃の中心はそれまでの長銃身から短銃身へと移りつつあった。1920年代前半にはチェコスロバキアやベルギーでは短銃身のモーゼル式小銃[注釈 2]を開発、多数を輸出するようになっていた。モーゼル社は、これに対抗すべく銃身長600mmのモーゼル・スタンダードモデル1924(Mauser Standard-Modell 1924)を開発した[注釈 3]。本銃は、まさにGew98の短銃身版というもので、銃身長や改良された照門を除き、銃下側の負革や直線状のボルトハンドル等はGew98と同様であった。
ヴェルサイユ条約の制約により、モーゼル社は本銃を未完成の部品として輸出し、スイスで組み立てを行った[15][16]。
1933年、モーゼル社ではスタンダードモデルに更なる改良を施した。これが、社内記録に「ドイツ郵政省用小銃」(Gewehr für Deutsche Reichspost)として残るものである[注釈 4]。本銃は、郵政省の財産を強盗や暴動から守るという名目で発注された[注釈 5]が、実質的にはドイツ再軍備への下準備に他ならなかった。その外見は、木製ストックに指掛け用の溝があることや、リアバンドの固定金具の形状、機関部等の刻印が異なる以外はKar98kとほぼ同一であり、まさにその前身と言えるものであった[17][18]。
先述したとおりKar98kの制式採用は1935年6月で、6月21日発行の陸軍報(Allgemeine Heeresmitteilungen)に6月14日付け告示として記載されている[19][20]。しかしながら実際の生産は、1934年に既に開始されている。そのメーカーはモーゼル社(Mauser Werke)の他、ザウエル社(JP Sauer und Sohn)[注釈 6]の2社である[21]。その後、製造メーカーの数は増え続け、途中製造を中止するメーカーもあった[注釈 7]ものの、1934年から1945年まで総合計8社10工場においてKar98kの生産が行われた。その生産は、ドイツ国内に限らず、占領下のオーストリアやチェコスロバキアにおいても行われた[6]。
Kar98kの総生産数は、戦火や戦後の混乱で記録が失われていたり、また相互に矛盾する記録が存在することなどもあり、正確な数値は不明である。そのため、様々な推計値が存在するが、その一つとして米国のコレクターを中心に行われた、銃に刻印されたシリアルナンバー(一連番号)からの推計値がある。ドイツの小火器類は一定のルールに基づいてシリアルナンバーが刻印されている。現存するものについて、これをメーカーごとに詳細に記録し、集計することでその総数を推計する方法である。その最新結果によれば、Kar98kは1934年から1945年までで総数11,367,893丁生産されたとのことである[6]。ただし、Kar98kはメーカー工場で生産された物だけがすべてではない。残されたGew98やKar98bの部品に新たにメーカー工場から供給された部品を組み合わせて各軍管区の兵站部等で製造された物も存在する[22]。これらは上記数値には含まれていないことになる。
Kar98kのボルトアクションメカニズムは、元祖のGew98時代から基本的に変わっていない。またその形態もKar98kとして採用された当初から終戦まで大きな変更はないが、戦火が激しくなるにつれて、当初は削り出し加工であった部品がプレス加工になる等、細かなバリエーションが存在する[23][24]。また、1944年からはKriegsmodell(クリークスモデル)と呼ばれる戦時省力型の生産も開始されている。その一番の特徴は、着剣装置や銃床上のボルト分解用金具の廃止である[25][26]。
狙撃銃として使用されたKar98kは、選抜された特に精度の高い個体が一部メーカーの工場または軍の兵站部において改造されたものである。これらには、多種多様な光学照準器(ライフルスコープ)及び装着器具(マウント)が使用されたが、特にスコープに着目すると次の3つに大別できる[27]。
チェコスロバキアのブルノ社(ドイツ名Waffenwerke Brünn)では、戦前からモーゼル式小銃Vz24やその短銃身型のVz33等を製造していたが、ドイツによる占領と共にそれらは細部をKar98kに類似させたドイツ型に修正して製造されるようになり、それぞれG24(t)、G33/40と呼称された。特にG33/40は山岳部隊仕様とされたが、いずれも1942年には生産が終了し、翌年以降、ブルノ社の2つの工場における小銃生産はKar98kに一本化されることとなった[32][33]。
第一次世界大戦後、ベルギーのFN社でGew98を改良し生産したモーゼル式小銃。中南米諸国や中華民国などに輸出された。
漢陽88式歩槍(清国及び中華民国でライセンス生産されていたGew88)は国民革命軍の主力小銃として建軍当初より運用され続けていたが、1928年に中国国民党による北伐が完了した時点で、既に同銃の原型であるGew88の製造開始から40年近くが経過しており、軍用小銃としての陳腐化が進んでいた。中正式歩槍は旧式化した漢陽88式歩槍を更新する為、1935年にGew98以降のドイツ製モーゼル式小銃を模倣する形で開発され、同年より製造と配備が開始された。オリジナルのドイツ製モーゼル式小銃とは槓桿の形状や負い革の取り付け位置が異なるなど、設計が一部改変されている。1937年の日中戦争勃発後、中正式歩槍を製造する一部の工廠が侵攻してきた日本軍によって占領されたが、その後も日本軍の支配下で中正式歩槍の製造が継続され、満州国軍や南京国民政府、皇協軍等に譲渡された。また、第二次世界大戦終結後の国共内戦でも国民革命軍と中国工農紅軍の双方で主力小銃として使用され、朝鮮戦争においても少なくない数が中国人民志願軍に配備された。
1940年4月、軍はKar98kを更に短銃身としたG40kという新型小銃の試作命令を出した[34]。その銃身長は490mm、全長は995mmであったが、少数が試作、試験されるに留まった[35][36]。
Kar98kの簡易戦時生産型で、大戦末期に中高齢者や少年によって編成された国民突撃隊の装備として作られた「国民突撃銃」の内の一つである。ナチス党行政側の要請で、武器を確保するためにkar98kを生産していた工場から、在庫部品を民間へと下げ、そこで製作された。そのため、生産ラインや工場によりさまざまなタイプが存在し、従来のKar98kと同じように5発の弾倉を持つものと、単発式のもの、拳銃式のサイトから本来のサイトなどかなりの差異が見られたという。
(単発型諸元) 口径:7.92 mm 全長:1,031 mm 銃身長:528 mm 重量3.13 kg 初速:731 m/s
2009年現在、モーゼル社は民間向けにGew98/Kar98kアクションを忠実に再現した狩猟用ライフル「モーゼルM98ライフル」を販売しており、日本国内でもライフル銃として所持をする事が可能となっている。
また、中国の中国北方工業公司はKar98kを模した狩猟用ライフルをJW-25Aの製品名で製造している。ただし、Kar98kよりも全長が100mmほど短く、伴って銃身長も70mmほど短くなっている。また、使用弾薬は低威力な.22LR弾であり、装弾にはクリップではなく5発装填の箱型マガジンを用いる。
ドイツ軍の制式小銃だったため、第二次世界大戦を題材にしたものやドイツ軍が登場する作品に多く登場する。また、第一次世界大戦を題材にした作品においても、Gew98の小道具の代用に用いられることもある。
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