NON STYLE |
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活動期間 |
2016年11月2日 (石田のチャンネルをコンビのチャンネルに変更したため、正確には2020年2月29日) - |
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ジャンル |
コメディ |
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登録者数 |
73万人 |
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総再生回数 |
312,435,746回 |
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登録者100,000人
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チャンネル登録者数・総再生回数は 000000002024-02-13-00002024年2月13日時点。 |
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NON STYLE(ノン・スタイル)は、石田明と井上裕介による日本のお笑いコンビ。吉本興業東京本社所属。2000年5月14日にコンビ結成。NSC大阪校22期生と同期扱い。爆笑オンエアバトル第9代目チャンピオン、M-1グランプリ2008王者、THE MANZAI 2012・2013ファイナリスト(2013 第3位)。
来歴
元々2人は同じ中学・高校に通っていた。井上が「俺が大学落ちたら一緒にNSC行こうや」と言った事もあったが、石田は(父親が板前であったため)板前として就職が決まっており、井上は大学に合格したため進学した。
石田は板前修業をしていた2年の間に、高校時代の友人2人に誘われ「ほりごたつ」というトリオで心斎橋筋2丁目劇場のWachachaブレイクに一度だけ出演した。解散後は「ジャッジメント石田」と名乗り、ピン芸人となる。一方井上は、大学でパンクバンドを組んでいたが解散し、ストリートミュージシャンになろうとしていた。
石田の状況を知った井上による「俺がギターを弾くからお前がベースを弾け、合間に漫才をしよう」という誘いを石田が受諾し、2000年5月14日に「NON STYLE」を結成。結成直後は大阪・梅田駅の近くで路上漫才を行っていたが、地元より少し離れたところの方がいいのではないかとなって、神戸・三宮駅付近で行うようになった。最大で200~300人ほどの人を集め一晩で10万円を山分け出来るほどの人だかりだったという。
ときには徳井義実(チュートリアル)や八木真澄(サバンナ)が2人の漫才を見に来ていたこともあるという。初めて梅田で路上漫才を行った時には酔っ払いの男に漫才について2時間も説教をされ、その男を見返すために漫才だけに絞った。今では漫才の大会で何回も優勝をしているため、井上は「その男の人に感謝をしている」と発言している。
Baseよしもとのオーディションに受かり、2001年1月[2]に吉本興業に所属しプロデビュー。当初は笑い飯の哲夫に面白くないと言われ、何かと馬鹿にされており、このことに腹を立てていたが、これにより発奮して頑張ったことで面白いと認められるほどに成長して、哲夫さえも認めるほどとなった[3]。
オーディション組だが、大阪NSC22期生(山里亮太(南海キャンディーズ)、ダイアン、スーパーマラドーナ、ミサイルマン、ネゴシックス、中山功太、キングコング、なかやまきんに君、久保田かずのぶ(とろサーモン)、林健(ギャロップ)、村本大輔(ウーマンラッシュアワー)など)、東京NSC5期生(大西ライオン、三瓶、平成ノブシコブシ、ピース、5GAP、ラフ・コントロール、遠山大輔(グランジ)、渡辺隆(錦鯉)、小田祐一郎(だーりんず)、とくこ)と同期扱いとされている。
2004年度から2007年度まで『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)に出場し、終始安定した成績を残した他、2006年度には9代目チャンピオンに輝くなどの活躍を見せた。
2006年、第4回MBS新世代漫才アワードで優勝し、同年末に初冠番組『NON STYLEのフリースタイル!!』が放送された。2007年までにお笑いの新人賞6冠を獲得、Baseよしもとのトップ組に昇格する。
2008年4月6日をもって、所属の選択を迫られたことで井上が8年間所属していたBaseよしもとを卒業し、ルミネに行くことを決め、東京進出。両名とも東京に住居を構え、以降は、京橋花月・ルミネtheよしもと等に活動拠点を移す。
2008年、『M-1グランプリ』(テレビ朝日系列)で決勝進出し、優勝を果たした。続く2009年にも連覇を目指し出場、敗者復活戦から勝ち上がり決勝進出を決めている。
2010年12月23日には、S-1バトルのグランドチャンピオンで獲得した賞金1億円を使用し、さいたまスーパーアリーナにてお笑いライブでは過去最大規模となる1万2千人を収容して『NON STYLE NON COIN LIVE in さいたまスーパーアリーナ』を無料開催した(因みに、S-1バトル6月度月間チャンピオン時の賞金は、7月31日-10月12日 に行われた単独ライブ『NON STYLE LIVE 2009 〜M-1優勝できました。感謝感謝の1万人動員ツアー〜』で、来場者に配布した無料ステッカーの製作費に使用した)。
芸風
主に漫才である。ハイテンポでボケの手数の多さが特徴[10][11]。爆笑レッドカーペットの影響であり、世代であるとしている。基本的にコント漫才であり、井上の簡潔なフリに対し石田が常に2つ以上のボケを出し続けることでスピード感を演出している。
石田はコンビ結成当初、ギャグ的要素を多用することで「誰からも取り残されない漫才」を意識していた。ストリート漫才を続ける過程で現在のスタイルに変わっていった[12]。
2007年まではカッコつけたがる井上を石田が「イキリ」(関西弁で意気がる、調子に乗るの意)とからかうことを特徴とする「イキリ漫才」と呼ばれるスタイルを主としていた[13]。
2008年以降は「石田がボケた後井上が突っ込み、さらに自分自身の右太ももあたりをグーで殴り自省するのを井上が突っ込む」というスタイルの漫才へと変更し、『M-1グランプリ』ではこのスタイルを駆使して優勝を果たした(詳細後述)。なお、2010年以降は行っていない。しかし、YouTubeの投稿用の収録ライブでは行っていた。
漫才中に、石田が「あぁ〜井上ヤバイ! この話飽きてきた」と言って井上が続けていても、あの手この手で無理やり漫才を終わらせるボケを組み込む事もある。
ネタ作りは主に石田が担当している。二人とも即興性を好むということもあり、ツッコミの大半は井上がアドリブで作っている。また、井上は「石田が書いた台本を井上に見せずにネタをやる」→「台本を見せてからやる」→「それぞれ家に帰って覚える」という流れでツッコミを考えると共にネタの完成度を高めている[10]。井上は「人に見せたら、その人がネタについて新しく発想するかも知れない」としてネタ合わせ中は絶対に人には見せない。また、オーディション会場に出向いて、ストップウォッチで時間を計りながら、参加芸人のネタの内容を全部書き留めるという“偵察”も行うこともある[10]。
またコントをすることもあり、キングオブコント準決勝進出の経験がある。
出囃子はKEMURIの『Prayer』。
エピソード
- 井上が前向き・外向的であり[14]、石田が内向的であると語られることが多い[15]。石田曰く「テレビに出たいという欲はあまりないが、(井上の陰に隠れているだけで)井上がいなかったら明るい」[12]。
- 二人の関係は「井上がNON STYLEの社長で、石田が従業員(下請け)である」と本人たちが述べている[16]。
- 石田は芸人を志すきっかけから現在に至るまで絶大な影響を受けた芸人としてお〜い!久馬(元シェイクダウン)の名前を挙げている。
- 結成当初は淀川の河川敷でネタ合わせをしていたため、石田はコンビ名の候補に「淀川ピーナッツ」を提案するも、井上はダサいという理由で却下し、当時井上が好きだったHi-STANDARDのように「○○スタ」と略されたいと思っていたことや「コンビ名に“ん”が入っていると売れる」という験担ぎ、当時でも横文字のコンビ名が少ない事をふまえて井上が「NON STYLE」と命名した[17]。なお、このコンビ名は、2017年にバラエティ番組『水曜日のダウンタウン』(TBSテレビ)内で若手芸人200人にアンケートをして作成された「ダサいと思うコンビ名ランキング」で1位に選ばれた[注 2]。
- 中学時代は出席番号1番が石田で、出席番号2番が井上だった。しかし中学時代はほとんど喋ったことがなかったという。また、当時は石田の方が身長が低かった[19]。
- 2008年3月頃に井上の提案による東京進出を巡って口論になったことがある。その後、井上は号泣しその様子を石田が写真に収めると同席していた吉本社員に石田が説教された。石田は後に「寧ろ東京に来てからしっかり話し合うようになった」と発言している[16]。
- 上京から半年後にテレビでのレギュラー番組は10本から2本(東京1本・大阪1本)になったが、石田曰く「暇だったが逆にネタを作れる時間ができたので、何も文句はなかった」[20]。また、この夏に「M-1グランプリで優勝したいんですツアー」を敢行し「優勝しなかったら恥ずかしい思いをするのは自分なので、敢えて崖っぷちに追い込んだ」と井上は振り返っている[21]。なお、井上は「したいんやツアー」としたかったが石田が名称を変更した。
- 2008年M-1グランプリ優勝会見では、記者の「優勝したのは誰のおかげだと思いますか?」という質問に対し、井上は「いろいろアドバイスをくださった先輩方」、石田は「まだネタが出来ていない内から今年のM-1は優勝しますと宣言して、僕を引っ張ってくれた井上」にそれぞれ感謝していた[22]。
- 石田が全ネタを作成しているため、井上は「M-1の賞金は石田が7割、俺は3割でいい」という話をしていたが、優勝後に現金を目の前にし、結局5:5となった。
- 2020年4月30日、いまさらファンクラブ[23]を設立。
爆笑オンエアバトル
『爆笑オンエアバトル』には2004年度から2007年度まで出場し、10戦全勝という好成績を残した他、2006年度には9代目チャンピオンに輝くなどの活躍を見せた。
- 初挑戦は2005年2月19日放送回(2004年度最後の通常放送回)。初挑戦ながらオーバー500(501KB)を獲得し、トップ通過も果たすという幸先の良いスタートを切っていた。
- 出場当初はオーソドックスな漫才を披露しており、石田のキャラ(病弱な所や、細身の体を活かして漢字の部首を表すなど)を強く押し出すスタイルを取っていたが、4戦目(2005年10月8日放送回)以降からは井上の「イキリキャラ[注 3]」を前面に押し出すスタイルを取るようになった(このため、井上は3戦目までは普通に上下スーツにネクタイ着用という姿で舞台に立っていたが、4戦目以降はこのキャラに徹するべく「スーツの下にタンクトップを着る」という姿で舞台に立っていた)。この「イキリ漫才」にシフトして以降は高得点を連発するなど成績が安定していき、そのため『爆笑オンエアバトル』では最後の出場までこのスタイルを貫いていた。
- 2005年度は安定した成績を残し、年間合計KBランキングでは5位を記録して初のチャンピオン大会に進出。セミファイナルではオーバー1000(1010KB)を記録するも、ファイナルでは750KBと奮わずチャンピオン達成はならなかった。
- 2006年度は出場した4戦全てで480KB以上を記録し、3戦目では1年9ヶ月ぶりとなるオーバー500(509KB・自己最高KB)を記録するなど驚異的な安定感で勝ち星を重ねていった。最終的に年間合計KBランキングでは4位を記録し、2年連続2回目のチャンピオン大会進出を果たす。その結果セミファイナルでは970KBを記録して2位で通過すると、ファイナルでは974KBを記録して9代目チャンピオンの座に輝いた。なお、今大会ファイナルにおいては、暫定チャンピオンであり当時圧倒的な強さを誇っていたタカアンドトシに史上初の3連覇への期待がかかっていた事に加え、尚且つ関西勢がNON STYLEただ1組だけという厳しい状況下であったが、それらを乗り越えてのチャンピオン達成となった。関西出身の芸人がチャンピオンとなったのはハリガネロック以来5大会ぶりであり、『爆笑オンエアバトル』『オンバト+』を通して関西勢最後のチャンピオン達成者でもある。
- 2007年度は暫定チャンピオンとして11月2日放送回に出場すると、481KBを獲得してトップ通過を果たし、10戦全勝を記録してチャンピオンの貫禄を見せつけた。第10回チャンピオン大会ファイナルにはシードで出場するも、3位(886KB)に終わっている。2008年度以降は出場しておらず、今大会ファイナルを最後に事実上の番組卒業となった。
- 「オンバト」においては終始安定した成績を残しており、屈指の実力を誇った。10勝の内9勝が470KB以上を記録しており、順位もチャンピオン大会を含めたすべての挑戦において上位5位以内、中でも通常回では上位3位以内をキープしていた。なお、10勝以上して400KB台を1度も下回った事の無い芸人はNON STYLEとイワイガワのみであるが、更に全戦全勝(4連勝以上)を達成している芸人に限定すれば、NON STYLEは唯一1度も400KBを下回った事がないコンビとなっている。
- 歴代チャンピオンの中では、オンエア・オフエア含め記録した最低KB数が最も高いコンビでもある(NON STYLEは2005年6月11日放送回の441KBが最低KB)。その一方で出場回数(10回)とオーバー500獲得回数(2回)が歴代チャンピオンの中でいずれも2番目に少なかった。また、初出場からチャンピオン達成までの期間が短った事もあり、挑戦回数やオンエア回数の条件が満たされていないため、「ゴールドバトラー」には認定されていない(詳細は『爆笑オンエアバトル#プラチナバトラー&ゴールドバトラー」の項目も参照)。
- 上述のように安定した成績を残していた一方で、高得点の証であるオーバー500に関しては中々獲得する事が出来ず、出場10回中2回しか達成出来なかった(一歩手前である480 - 490KB台を記録することの方が多かった)。2008年12月30日に放送された「爆笑オンエアバトル10周年企画『ヒーローたちの伝説ネタSP』」にて2人が語った所によれば、「オーバー500は壁であり、取るつもりでも取れなかった」「チャンピオンも嬉しかったが、545KB(満点)の方が嬉しいかもしれない。満点は取ってみたかった」などと本音を明かしている。
- 上述のようにNON STYLEは「オンバト」と「M-1」の両方で優勝を経験しているが、後に行われたインタビューにて井上はそれぞれの審査の傾向を比較し「持論ですが『オンバト』は「一番面白い芸人」というよりも「一番共感できる芸人」が優勝できるような気がします。『オンバト』は客席に100人いたら99人に好かれないといけないんですけど、『M-1』は100人の内10人しか笑っていなくてもその10人の評価が凄ければいい、みたいな空気はあります」と語っており、石田も「『オンバト』はアクがない方が有利かも知れない。『M-1』は逆にアクがないとダメ」と語っている[24]。
M-1グランプリ
『M-1グランプリ』には2001年の第1回大会から2009年大会まで9回出場した。
- 決勝進出まで
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- NON STYLEは結成から数年で関西の新人賞レースを総なめにし、上記の『爆笑オンエアバトル』でチャンピオンに輝いたりもするなど、関西では若い層を中心に圧倒的人気を誇っていたが、結成当初から出場し続けていた『M-1グランプリ』の決勝には1度も進む事が出来ていなかった。上記の『オンバト』同様、『M-1』においてもNON STYLEは井上の「イキリキャラ」を中心とした漫才を披露し続けていたが、石田はこの結果を受けて「今の漫才の形ではこの先は無い」「(「イキリ漫才」は)限界が見えていた」「それまでのスタイルを続けても、過去のネタを焼き回すだけ」[15]などと思うようになり、「今までやってた漫才のスタイルは捨て、新しい漫才を作る」という考えに行き着いたという(なお、井上にその事を打診した時は、当初は反対されたと語っている)[12][15]。また、それまでは関西を拠点に活動していたが、『M-1』で優勝するという思いを胸に上京も決意する。当然、関西での仕事は全て無くなり、また東京での知名度もまだまだ低かったために仕事は大幅に減ったという[25]。
- 2008年
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- 出場8回目にして念願の決勝初進出を果たす。ファーストラウンドでは7番目に「人命救助」を題材としたネタを披露。テンポよくボケを繰り出し、見る者をしっかりと掴みながらハイスピードで疾走する漫才で爆笑をかっさらった。その結果、今大会のファーストラウンドにおいて唯一審査員全員から90点台を得るという高評価を受け、総合で700点満点中644点を獲得。暫定1位だったナイツ(640点)を抜いてトップに躍り出た。審査員の中で最高得点(95点)をつけた上沼恵美子は「大阪で私の番組によく出てもらってるけど、この2人、フリートークはあんまりおもしろくない(笑)。初めて漫才を見て『やるねんな』とビックリした」とコメントしていた[25]。また、他の審査員もNON STYLEに対しては殆どノーマークだったようで、漫才を見てかなり衝撃を受けたらしくCM中も興奮冷めやらず、NON STYLEへの評価を全員で話し合っていたという[25](これはNON STYLEが新しい漫才を直前まで隠していたことも奏功している[12])。しかし、この直後に敗者復活戦から勝ち上がってきたオードリーが649点を記録して1位通過となったため、ファーストラウンドを2位で通過して最終決戦へと臨むことになる。最終決戦ではネタ順が2番目となり、「ホラー映画」ネタを披露。1本目と同じく速いテンポでボケを繰り出すハイスピードな漫才で爆笑を誘った。そして最終的には審査員から7票中5票獲得[注 4]し、優勝を果たした。なお、石田は優勝が決まった瞬間から号泣していたが、それを横で見ていた井上も最初こそ石田を支えながら涙をこらえ気丈に振舞っていたものの、オンエアが終わった途端に緊張がほぐれて感情が溢れだし床に崩れて泣いてしまっていた[25]。
- 因みに第2回王者のますだおかだ以来、6年ぶりにファーストラウンドを1位以外の順位で通過しての優勝であり、また最終決戦で2番目にネタを披露して優勝した初のコンビとなった。更に第5回王者のブラックマヨネーズ以来となる決勝初選出初優勝となった[注 5]。
- 上述の通り、今大会から漫才のスタイルを変えており、「石田がボケた後で太腿をグーで殴って反省し、それを井上がまたツッコむ」という、いわば「普通の漫才の流れがありつつ、別の流れでもう一個笑いをとる」スタイルで挑んだ[15]。なお、石田はこのスタイルに対して「完全にM-1のためのネタ」「決勝のステージで受けることだけを意識した競技用の漫才であって、営業では受けない」と語るなど完全に割り切った考えを持っていた[15]。そのため「本番で受けるかどうか、むっちゃ不安だった」というが、「M-1に勝つには、そこまでやらないといけない」という思いから実行に至ったとの事[15]。
- 上述の漫才スタイルは完全に「M-1で優勝するために作られた」ものであったため、2018年現在は全く行われなくなっている。また、石田はこのスタイルを嫌っており、2016年10月4日放送の『EXD44』(テレビ朝日)に出演した際には「M-1(で優勝した時)のネタなんて全然好きじゃない」「二度とやりたくない」などと本音を明かしていた[26]。
- 大会終了後、審査員の島田紳助は「僕の中の圧勝でした」と述べ、上沼恵美子も「圧勝。私の中ではダントツでした」と述べるなど絶賛のコメントが相次いだ。また、オール巨人(オール阪神・巨人)は「2、3年前から決勝に来てもおかしくない奴らだった」と述べており、前々からNON STYLEの事を高く評価していた事を明かしている。一方で松本人志(ダウンタウン)は「2人を全く知らなかった。トークが苦手ということで『すべらない話』で会うことはないのかな」と冗談交じりに述べていた。このように漫才は高く評価された一方で「フリートークは下手(苦手)」と審査員から厳しく評される場面も多く見られた[27][25]。
- NSC卒業生ではない、俗に言う「オーディション組」からの優勝者はNON STYLEが初[注 6]であり、また彼らは優勝当時2人とも芸歴8年7ヶ月という、M-1グランプリで優勝を納めたコンビの中では最も芸歴が浅い芸人であった[注 7]。
- このように『M-1』で優勝を果たしたものの、世間では敗者復活戦から勝ち上がったオードリーの方に注目が集まってしまい、皮肉にも「優勝コンビよりも2位の方のコンビが大ブレイクしてしまう」という逆転現象が起きてしまった(この事は優勝直後に出演したバラエティ番組などで度々いじられていた)。また、この事がきっかけとなり、以降は「お笑いの賞レースでは優勝者以外の方が売れる」というジンクスが度々起こるようになった[28]。
- 2009年
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- 2008年に引き続き、2009年大会においても連覇を目指すため、出場を表明[29]。歴代王者の再戦は、第3回王者のフットボールアワーが第6回大会に出場して以来となったが、優勝者が間隔を空けずに翌年においても連続で出場した例は今回のNON STYLEが初であった。結果は準決勝で敗退してしまうものの、その後敗者復活戦から勝ち上がり2年連続で決勝へ進出。ネタ順9番目に「ヤンキー漫画」のネタを披露して審査員から641点を獲得し、暫定3位であったナイツ(634点)を抜いて滑り込みで最終決戦に進出した。最終決戦では1番目に「時代劇」を題材としたネタを披露したが、直後に登場したパンクブーブーに満票を取られ、連覇は果たせなかった。
- 上述のように歴代王者の再戦となったが、過去のフットボールアワーのような「間隔を空けて」ではなく「連続出場」であったため、前年優勝者のNON STYLEが今年も『M-1』に出場した事には賛否が分かれた[30]。2004年度M-1王者の山崎弘也(アンタッチャブル)は2009年12月17日放送のラジオ番組『アンタッチャブルのシカゴマンゴ』(TBSラジオ)において、間隔を空けて出場したフットボールアワーと比較した上で前年王者であるNON STYLEの再出場に苦言を呈していた。その一方で、2007年度王者のサンドウィッチマンはM-1・2009終了直後のよしもとオンラインで「自分達は(連覇を狙う)勇気がないから凄い」と賞賛していた。
- その後
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- 規定上のラストイヤーであった2010年大会では不参加。5年ぶりの復活となる2015年大会では2001年 - 2010年大会までの歴代優勝コンビの片方[注 8]が審査員を務めることとなり、NON STYLEからは石田が審査員に選ばれた。